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播磨風土記1300年 志染に伝わる二皇子の物語(三木市)
今朝、FBでおはようのあいさつとともに綴らせていただいたメッセージ。

おはようございます。
昨夜寝る寸前に思い出しました。 先生から教えてもらっ たんだけど、今年、播磨風 土記1300年だそうです。 僕の故郷『志染』の金水 には、2皇子の物語があります。播磨風土記に記さ れている話。志染を舞台に 『播磨の風土記1300年 祭』なんてやれればなぁな んて先生と盛り上がり ました。 落ち着いたら、考えたいと思います。


これに対して多くの皆さんから『いいね!』をいただきました。

幼馴染みで現在横浜に住んでいるたっちゃんからはこんなコメントが。

「おけ」「をけ」の話でしたよね。懐かし いです。

「おけ」「をけ」

皆さん、ご存知ですか。

こんなお話です。

志染に伝わる古代太古の浪漫の物語です。

今から1500年ほど昔、大和国(やまとのくに=現在の奈良県)では、天皇のあとつぎをめ ぐって争いが起こりました。政治をにぎった雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、競争相手 だった市辺王(いちべおう)を殺してしまいます。市辺王の二人の子どもは、播磨国(はり まのくに)までのがれて、現在の三木市(みきし)にあった志染村(しじみむら)の窟屋 (いわや)に、かくれ住むことになったのです。 二人の名は、兄が「億計皇子(をけおうじ)」、弟が「弘計皇子(おけおうじ)」といい ました。そしてふたりは身分をかくし、志染村の長であった細目(いとみ)の屋敷で、働く ようになりました。

そんなある日、皇子たちは、ひとりの娘にめぐり会いました。娘の名は根日女(ねひめ) といいました。一目見るなり、二人は、美しくてやさしい根日女を好きになりました。けれ どもおたがいにゆずりあって、なかなか言い出せません。根日女は、二人が皇子だなどとは夢にも思いませんでしたが、りりしい皇子たちを好ましく思いました。

けれども二人ともすばらしい男性です。どちらかを選ぶこともできないまま、日々は過ぎていったのでした。 やがて雄略天皇が亡くなり、その後を清寧天皇(せいねいてんのう)がつぎました。 そんなある年、細目の家では、新しく建てた館を祝う宴(うたげ)がもよおされることに なりました。そこには、播磨国にある朝廷(ちょうてい)の領地を見回りに来ていた、山部 連小楯(やまべのむらじおだて)も来合わせていました。 やがて宴が始まると、細目はふたりの皇子に命じて、神様をお祭りする灯火(ともしび) をつけさせ、さらに、新築のお祝いの歌を歌うように命じたのです。こういうことは、身分 の低い者の仕事でした。二人はしばらくの間ゆずりあっていましたが、やがて弟の弘計皇子 がつと立ち上がると、高らかに祝いの歌を歌い始めました。

そしてお祝いの歌が終わると、皇子は勇気をふりしぼってさらに歌を続けたのです。

「たらちし、吉備(きび)のまがねの、狭鍬(さぐわ)持ち、田打つなす。手打て子ら、 吾(あ)れは舞(ま)いせむ(吉備の国の鉄で作った鍬(くわ)をもって、田を耕すよう に、さあみんな手を打て、私はおどろう)。」

そしてさらに続けた歌に、人々はとび上がるほどおどろきました。 「淡海(おうみ)は水たまる国、倭(やまと)は青垣、山投(やまと)にましし、市辺の 天皇が、御足末(みあなすえ)、奴(やっこ)らま(近江は水の豊かな国、大和は山に囲ま れた国、私たちは、その大和におられた市辺の天皇の子なのですよ)。」

あまりのおどろきに、人々は屋敷を走り出て地面にひれふしました。大和から来ていた山 部連小楯は、この歌を聞いて大いに喜びました。 「母君は食事もめし上がらず、夜も寝られないほどなげき悲しんで、この皇子たちの行方 (ゆくえ)をさがしていらっしゃったのです。」 こうして二人の皇子は、晴れて都へ戻ることができました。

都へ戻ってからも、二人は根日女のことを忘れませんでした。けれども都で大切なまつり ごとをしなければならない二人には、根日女を訪ねる時間はなかったのです。 そうして時は流れ、年が経ち、とうとう根日女は亡くなってしまいました。それを聞いた 二人の皇子は深く悲しみ、使者をつかわしてこんなふうに命令しました。 「一日中、日がよく当たる場所にお墓をつくってください。根日女のなきがらを納めた ら、そのお墓をきれいな玉でかざりましょう。」

やがて大きな墓がつくられ、根日女はほうむられました。村人たちは、玉でかざられて美 しくかがやく墓を「玉丘(たまおか)」と呼んで、いつまでも根日女のことを語り伝えたと いうことです。

その後二人の皇子は、天皇の位を継ぐことになりました。その時、兄の皇子は、「おまえ が勇気を出して歌ってくれたから、都へ戻れたのだよ」と、弟に位をゆずり、3年後、弟が病 気で亡くなってからその座につきました。 若い日々を苦労のうちにすごした二人は、ともに立派な政治をおこなったので、その時代 には争い事などひとつも起きなかったそうです。


ひょうご歴史ステーションより)
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